2章 師匠と幼馴染が出会った日
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周りの視線が気になる。
リン達の家を出て初めて知ったが、そこはマンションで、オレの家からよりも、オレの通う高校、そしてリンの通う中学に近い。一応エレベーターもあったが、リン達の
部屋は二階だったため、階段を使って降りた。
道に出ると、そこはすでに高校、中学の通学路だったため、数人だが、学生が歩いていた。そして、その学生達は例外なく、ある者はなんとなく微笑ましく、ある者は憎悪を
こめてというかんじで、オレとリンを見てくる。
「あの、リン……そろそろ手を離してくれるとありがたいんですけど……」
それもそのはず、オレはリンに玄関までひっぱられ、そのまま手を放されることなく今に至っているのだ。オレの気持ち云々は関係なく、端から見れば、間違いなく仲良く
手をつないでいるように見えるはず。嬉しいことは嬉しいのだが、それを勝る恥ずかしさ。
「えー、なんで? あ、もしかして強く握りすぎた?? ゴメンねぇ」
そして本人の自覚のなさ。こうしているのが当たり前だと言わんばかりの笑顔。恋人同士だから、的な理由ではなく、それは勿論違うのだが、目的地の方向が同じだから、
とか、素で考えていそうだ。朝のベッドの件もそうだが、オレを男と見ていないのだろう。そっちはそっちで、どういういきさつでオレをあのベッドに寝かせたか分からないが、どうせ寝るなら同じ、
とかいう理由で同じベッドに入ったに違いない。
「あ、拓斗くんさぁ」
「はひ?!」
声が裏返った。他の理由などを一瞬でも考えてしまったオレがいた。顔から湯気はでていないだろうか。
「……? リンに敬語使うのナシね。呼び捨てなのに敬語っておかしいしね」
少し手を緩めたが、未だ手を繋いだままのリンは、機械オンチがケータイを眺めているような顔をしたものの、オレにそう告げる。
言われてみれば確かにそうだ。悪玉の子分が、"親分様、準備が整ったぜ〜"とか言って、様をつけているのにタメ口みたいな、そんな不思議な現象をオレは起こしていたようで。
「うん、分かったよ、リン」
なんとなく、自然に受け入れることができた。
そこから数分、聞きたいことは山ほどあれど、緊張のあまり何も聞けないまま歩いていくと、オレの通う高校の校門が見えてきた。見慣れた、朝練をしている部活もあるグラウンド、
その少し奥の芝生も、隣の人の存在が、それらを全く違うものに見せているような気がする。
「ひゃうっ?! 痛い……」
「……」
そんな中、オレ達の少し前方で、バンジジージャンプをするかのように、
派手に転ぶ女子生徒が一人。顔面を地面にぶつけるわ、カバンの中身はぶちまけるわ、スカートはめくれるわ。一種異様な光景ともいえるが、
これだけは、見慣れたものがその通りに見えた。
オレはいいきっかけだと思い、緩まっていたため容易にとけるリンの手を放し、足元におちていたピンクのケータイと鏡を拾う。その女子生徒、湖西莉子の好きな色。
「莉子、大丈夫?」
近づいて、手を差し出す。
「ふあぁ、拓ちゃん……おはよう」
莉子は、一瞬ためらったようにしたが、すぐにオレの手をギュッとつかみ、立ち上がる。鼻の頭が赤い。いつもと同じ、オレから見て右側で結っている黒髪が微かに揺れる。
「よかったよ、莉子はいつものままで……」
昨日からの紆余曲折のせいか、思わずそんなことばがもれる。
莉子は、極度のドジ性だ。幼馴染のオレが保障する。今のように何もないところで転ぶのは日常で、一応オレのクラスの委員長なため、職員室からプリントを持ってくることも多いのだが、
何度廊下を白く染めたかは分からない。だが、ポジティブシンキングなのと、責任感の強さから、一年、二年とクラス委員を務めている。
そしてオレは、そのフォロー係り。副委員長であるとか、そういうわけではないが、幼馴染だから、という理由で、なんとなくそのポジションになってしまった。勿論嫌というわけ
ではないが、莉子に関わると、非常に面白いことになってしまう。このとき面白いのは、当事者であるオレと莉子以外の人間であると相場は決まっているのだが。
「いつも転んでて悪かったね! でもありがとう」
オレが拾ったものを差し出すと、両手で受け取りつつ、
ニコッと少し恥ずかしそうに笑う莉子。莉子だけは、変に女の子と意識せずに付き合える唯一の存在。そして今まではただ一人だった、呼び捨てにできる大事な友達。
そういえばふと思い出したが、莉子がドジをし出すようになったのは小学校に入ってからだったような。少なくとも幼稚園に通っていた頃、そんなことはなかった。
自我に目覚めたら、ドジっ子になっていたなんて、滑稽な話だ。
「た〜く〜と〜くぅ〜ん」
「うわっ?!」
幼いころに思いをはせていたせいでボーッとしていると、それを遮るように背中からずしりと重みが。同時に、耳元でオレの名を甘ったるく呼ぶ声と、少しミントな香りの吐息。少し
背中がゾワッとした。
「誰これ、拓斗くん」
一瞬自体を把握しかねた。
目の前ではせっかく拾ったケータイなどを手から落としてしまいながらも、昨日までは女だったのに、今日になったら突然男になっていた友達を見るような目で、
こちらを見ている。そして、背中からオレの首元へ伸びる二本の腕と、耳元ではさきほどから続く軽い吐息。
「ねぇ、誰これ、拓斗くん」
二度目の問いかけで、後ろにいる、というか、後ろから抱き着いているのはリンだと分かった。分かると、全身が熱くなるのを感じた。ポストの隣にいたら、
区別がつかないかもしれない。
「"これ"っていうのはどうかと思うけど……あたしは莉子。湖西莉子ですけど」
毅然と、というか、微かにこちらを睨んで、問われたオレの代わりに答える莉子。莉子もこんな表情をするのか。
「ふぅん……リンは海南リン。拓斗くんの師匠」
師匠という言葉はひっかかったものの、今そんなことはどうでもいい。この重苦しくて冷たい空気はなんだ。
莉子は両手を胸元に当て、さっきより強くリンの方を睨む。両手を胸元に当てるのは莉子の癖だが、ギュッと握った拳がプルプルと震えている。足元にはまたカバンと
その中身が散乱しているが、それを拾える雰囲気ではない。
対するリンは、背中にいるため表情は分からないが、明らかにまわす腕の力が強くなっている。
しばらくの沈黙。はさまれるオレ。どうする、オレ。
と、助け舟は、思わぬ所からやってきた。
「あ……」
「あ……」
睨み合う二人は、同時に声を漏らす。
船は、どの学校でも共通の時報。つまり、チャイムがなったのだ。チャイムは、朝のホームルームの十分前と五分前に鳴る。今はその一回目。
するりと腕が外れると、軽くなる背中。
「じゃあ拓斗くん、あとで迎えに来るからねっ!」
オレが通っていた中学、すなわち現在リンの通う中学の朝の始まりは、この高校と同じ時刻。まだ中学までは少し距離があるため、リンは何事もなかったかのように、駆けていく。
弾ける笑顔と、爆弾を残して。
「莉子さぁぁん……?」
リンの背中をしばらく見送ると、オレは即座に莉子の落としたものを拾い、また手渡す。なぜか、莉子は笑顔だ。
「拓ちゃん、あたし、ゆっくり拓ちゃんとお話したいことがあるんだけどな。いいよね?」
船は、泥舟だったに違いない。