2章 師匠と幼馴染が出会った日
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忘れていた。
学校での悶着のせいで、リンとレイさんの家にまた行かないといけないということを。
それを思い出したのは、放課後、校門でリンを見たときだった。オレを待っていたようだ。そういえば、迎えに来るとか言っていたような。
結局、あれからも今朝の話題には触れることはなかった。
他のクラスメイトから見れば、オレと莉子と秀也は、いつもどおりの三人に見えていただろうが、蚊帳内のオレ達から見れば、微妙にぎこちなく、居心地が悪かった。
それでも、校門でオレを見つけ、笑顔で手を振るリンを見ると、何だか心が安らいだ。
しかし、その安らぎは、金魚すくいの時に使うポイ、あの白い幕並みに脆いものだと気づくのに、そう時間はかからなかった。
リンにつれられ、また家に入ると、すでにレイさんはそこに置かれたオブジョのように足を組んで鎮座し、軽く漂う匂いから察するに、コーヒーを飲んでいた。
いっそのことオブジェであれば、恐怖とは無縁の存在となるのだが。ともかくオレは、リンに進められるまま、
朝ごはんの時と同じ配置、オレの隣にリンがいて、右斜め前にレイさん、という具合に座った。制服は、上だけ脱いで近くの棚の上に置いた。
そのあとすぐにリンは席を立つと、慣れた手つきでハーブティーを入れる。レイさんと、斜めとはいえ向き合って座っているのは気まずくて、リビングから見える
キッチンのリンの行動を、ずっと追ってしまう。
「……」
何から聞けばいいのか。そして、何を聞かれるのか。
あれほど聞きたいと思っていたことがあったはずなのに、少し時間を置いてみると、よく分からなくなった。もとより整理のつかない頭で考えていたことだから
しょうがないといえばしょうがないが、学校での一件も、少なからずその要因だ。
「う〜ん、何から話そうか、レイちゃん」
二人も何か考えているのか、リンが自分のとオレのハーブティーを用意し戻ってきてからは、各々の飲み物をすする音しかしない。
そんな中、その場の空気に耐え切れなくなったか、リンが口を開く。考え込んでいたせいか、深く眠っていたのに、いきなり誰かに布団を剥がれたような気分になる。
「……お前のを見せるのが一番じゃないか?」
レイさんは、話している間だけカップから口を離したが、終えるとすぐに戻す。さっきからずっとその姿勢を崩さないが、いったいそのカップにはトラック何台分の
コーヒーが詰まっているのか。
「ああ、それがいいかぁ。……見ててね、拓斗くんっ!」
言うが早いか、リンは制服の袖に手をかける。まさか見せるというのはリンの、などと無駄な妄想をしてしまったが、現実はそんなはずもなく、リンは腕まくりをした。
「はいっ!」
そして掛け声とともに、同時に両手をパン、とならし、右手の人差し指をオレの前にズイと出す。
「おお」
思わずオレは、感嘆の声をあげる。ただし、形式的に、だが。
リンの人差し指には、マッチでつけたほどの炎が灯っていた。オレの顔の目の前にあるため、少し温かさを感じる。
「リンって手品できたんだ」
このテの手品は、テレビでもよく見る。仕掛けは正直なところ分からないが、驚くには足らずと言ったところか。
「ええ?! 違うよ、手品じゃないよぉ。ほらほら、見て見て?」
拍手をするかのように両手を何度も叩くと、リンは今度は両手をオレの方にかざす。十本の指では、一人キャンドルサービスが行われていた。結婚式でやったら、
受けること間違いなしだ。なぜ手品と言われたことを否定するのかは分からないが、ますますそれらしくなる。
「すごいすごい」
「うわっ、絶対すごいと思ってないよね、それぇ? これはね、魔法なんだよっ!!」
無気力に驚くフリをするオレに、リンは困り顔で訴える。
なるほど、そういうことか。
「ああ、魔法ね、魔法かぁ」
「そう、そうそうそう魔法だよっ!」
オレが納得したようにことばを発すると、両手の炎群をいつのまにか消したリンは、嬉しそうな顔で同調する。
つまりは、自分の、種を悟られないほどに上達した技術を、手品などという陳腐なことばで片付けて欲しくない、そういうことだろう。手品は英語でマジック。魔法もマジック。
もっとも、魔法ということばも十分に陳腐だと感じるのだが、それはオレのゲームのやりすぎだろうか。
「……おい」
二人で笑い合っていると、少し置いてけぼりをくったような表情のレイさんが、明らかにオレの方を睨んで声をかける。俄かに昨日の、
変質者拓斗事件、かっこ自称、かっこ閉じを彷彿させる。自称を使うタイミングとしてはネガティブすぎるかもしれないが。
「あの、なんですか……?」
笑顔が凍りつくという表現があるが、今のオレは、凍りついたあとさらにかち割られた気分だ。おそるおそる尋ねることしかできない。
レイさんがティーカップを持っていない手、右手をこちらへかざす。
「ごめんなさいごめんなさいっ?!」
これで確定的に、昨日の出来事と重なる。思い出される、床の温度と天井の色。頭隠して、尻も隠す。これでも不十分かもしれない。目を瞑ろう。
「にゃっ?!」
今のはオレの声なのだろうか。オレはそんな高い声、いやむしろ、猫の鳴き声のような声を出せたとは、驚きだ。きっと痛みに耐えかねて、口ではない何かの器官から
発されたのだろう。
「……あれ?」
「ちょっとレイちゃん、ひどいよっ!!」
痛みなどなかった。強いて言うなら、隣でリンが金切り声をあげたせいで耳が痛いくらいだ。少なくとも、昨日味わった
鈍器で殴られたような痛みはどこにもない。何が起こったか分からないが、とりあえずリンの声は、シンバルの音よりは小さかったようだ、と、どうでもいいことくらいは
分かった。
「隣を見ろ」
何はともあれ、聞こえたレイさんの声に従う。逆らわぬが吉。いや、恐いから逆らわなくても末吉くらいかもしれない。
「凶だ」
本人曰く、凶らしい。
「……え?」
やたらと我が脳内とシンクロしたことを言われ、思わずきょとんとなってしまった。左隣には、シッポにリンのつけているものと同じリボンを結わえられた真っ黒なネコが、
文字どおり伸びている。そして、それをちょうど今抱きかかえるリン。
「私は、凶に向かって魔法を使った。だから凶は伸びている」
「キョウちゃんが死んじゃうよおおぉ?!」
反感の叫びをどこ吹く風という感じのレイさんは、しばらくネコを見ていたが、凶とはネコの名前のことだったのか、
などと考えていたオレの方に向けられる。やはり、睨んでいる。
にしても、まさかレイさんから魔法などということばが出るとは。実は自分も手品ができると自慢したかったのだろうか。
「えと、すごいですね……」
見え見えの社交辞令。余計に睨み具合がましたような気がした。
「信じていないな? 魔法を。手品などではない。お前も昨日体験したはずだが、あれのどこが手品だと思う?」
しかし、レイさんの睨み度がましたのは、社交辞令をかましたせいではないようで、腕組みをしつつそう言った。
言われてみればたしかにそうだ。深く考えていなかったが、あれは異常なことだ。気功とかその類のものとかととれるが、その辺りは詳しくないので判断できない。
「気功などではない」
またシンクロ。いや、今度は単純に先回りされたような感じだ。
「何? 拓斗くん魔法のこと信じたんじゃないの?! そりゃあ信じられないかもしれないけどさ、信じないとダメだよっ!」
隣からも非難の声。凶をダウンさせられたことと相まって、少し怒っている。
何を言っているんだ、この人達は。この二人は、手品なんてもののことではなく、全く別の何かを魔法と呼んでいるのではないか。しかも、
ありもしない空説を熱弁するイカレた科学者のように。
「もう、これだよ、魔法っていうのはっ!!」
口を開けども、言うことばが見つからない。
そのとき、リンはそう叫んだかと思うと、さきほど手品をしたときのように両手をパンと叩く。
するとどうしたことか、オレの座っている辺りが、急に熱く、いや、燃え盛っている。一瞬何が起こったか分からなかったが、
炎はオレの衣服にまで移っているではないか。
「うわぁあぁ?!」
踊るように夢中で腕を振るが、まとわりついて離れるどころか、振り回すたびに炎は大きくなる。
「何やってるんだリン!!」
レイさんのひどく焦った声が耳に届くが、酸素食いの化け物は、その間にもオレを絡めとる。
熱い。死ぬ直前には走馬灯とやらが見えると聞くが、そんなものはどこから来るのか。
天井が見える。だが、床の冷たさは感じない。当たり前だ、化け物がオレの全身の酸素を食らっているのだから。酸素を食い尽くせば、オレは終わりだろう。なんというか、
思ったより呆気ない。そろそろ熱さも感じなくなってきた。
オレが最後に聞いたのは、リンとレイさんの、何か、叫ぶ声だった。