3章 二人の師匠と腕試しの日
1
冷たい。
ふと気付くと、そんな単語が頭に浮かぶ。
なんというか、全身が硬くて冷たいものに包まれていて、すごく不幸せな気分だ。氷水にでも浸かっているような感覚。しかし、瞼は溶接でもされたかのように
開かない。
「こんな、でいいんですか?」
近くから、なんとなく聞き覚えのある、女の子のものと思しき声。何だか土管の中にでもいるように、声が反響する。
「うん、たぶん大丈夫だから、あとは冷やしておけばOKよ。でも、驚くのはこの子の身体能力ね」
続いて、聞きなれない女の人の声が続く。やはり声は、二重にも三重にもなった。
「とりあえず、こんなところにいつまでも寝かせておくのはかわいそうね。移動させましょうか」
「はいっ」
なおも響く声が聞こえたかと思うと、両手両足に、圧力がかかる。と同時に、妙な浮遊感。というか、誰かに運ばれているような。
さながら揺り篭のように揺られつつ、恐らく移動しているオレ。少し赤ん坊の気持ちが分かる。ほどよい揺れは、眠りを誘う。
まだ目は開けていないが、そのまま光を見ずに眠ってしまいたい。この寒さなら冬眠できる。未だ移動しているらしいオレだが、もはや睡魔と言う名の
最強とも呼べる敵を前になす術なく、平伏すだけだった。
「冷たっ?!」
「きゃあ?」
突然、オレの頭を皿にしてカキ氷を作られているような感覚に襲われた。
どうやら布団の上で寝ていたらしいオレだったが、腹筋のスピードを競う大会があったら三年はチャンピオンになれそうな速さで体を起こす。すると前方で、
何かが壁にぶつかる音。
「びっくりした……起きたのね、拓斗くん」
その壁にぶつかった何かが床に落ちる音が聞こえて数泊あと、ベッドに頬杖を付く女の人が、オレにそう言った。
最近のオレは、目を覚ますと、女の人がおはようございますな展開になるようで、今回も例外なくそれに従った。ただし違うのは、これまでそこにいたのはリンだったが、
今いるのはリンではなく、誰か知らない大人の女性だ。一言で表すなら、和服が似合いそうな黒髪美人。今着ているのは肩が露出したそれなりに色気があるものだが、
オレはそう確信した。窓から入る日が、後光のように差し込む。
オレは一先ず、何を言うべきかと模索していると、さっき何かが飛んでいった辺りにあるドアが開い
「ああっ! 拓斗く〜ん!!」
たかと思えば、今日も赤いリボンでツインテールの、リンが飛んできた。一瞬の出来事でそれを把握できたオレの無駄な動体視力は何だろう。何しろ次の瞬間、
リンがオレに覆いかぶさるように降って来て、オレの視界は暗闇へと戻されたのだ。
「よかった、よかったよぉぉ」
何だこの展開は。リンは何をしているのか。オレの顔と接しているのは、リンのどの体の部位だ。
「リンちゃん、リンちゃん、拓斗くん苦しそうよ?」
微かに先ほどの女の人のものだと思われる声が聞こえると、ようやくオレは開放される。開放されて目の前にあったのは、リンの胸だった。いまいち実感がなかった、
とは間違っても言えまい。
「ああ、ゴメンね、ゴメンね! でも嬉しくてえぇ……本当にゴメンねえ、拓斗くん……」
一瞬動揺しかけたが、子猫が顔を洗うように泣きじゃくりだしたリンを見て、少し嬉しくなり、
最後のゴメンだけは、違う意味が込められていると、恐らく昨日の出来事であろうことを思い出すと、そう思えた。
割とナチュラルに思い出せたことにも驚いたが、意外だったのは、恐怖といえるような感覚が、今思うとなかったということだ。確かに、
初出勤なのにいきなりド遅刻した新人社員並みには慌てていたとは思うが、逆に言えばその程度のものだった。
実のところオレは、炎関係のもの、特に爆発に関して、強い恐怖心を持っている。勿論一般的な感性からいっても、それは当然なことなのだが、オレの持つ恐怖とそれは、
高い豆を使ってプロが入れたコーヒーと安い豆を使ってアマが入れたコーヒーほどの差がある。
さすがにマッチほどのしょぼい炎なら問題ないが、
一昨年の中学三年の修学旅行で、なぜかキャンプファイアー、もとい、修学旅行ファイアーをやったとき、オレは一人目を瞑り、じっと終わるのを待っていた記憶がある。
事情を知る秀也と莉子が近くにいてくれたからよかったが、そうでなければ消防車をジャックして放水開始するか、炎と関わりない世界を求めて出家するかの
二者択一を迫られるところだった。
「どうしたの拓斗くん? もしかしてどこか痛い??」
オレが一人で考え事をしていると、何も言わなかったのを悪く受け取ったらしく、涙を拭くのも忘れ、リンこちらに顔を向ける。今日始めてリンの顔を見たが、
目は真っ赤に充血し、目の下には隈ができている。
「ありがとう、リン。オレはなんともないよ」
撫で易い位置に頭がある。思わず手を伸ばしかけたが、正面から視線を感じ、あとCD一枚分のところで手を止める。
「……」
そこにいたのは、レイさん。腕組みをし、相変わらず無表情で何を考えているか分からなかったが、深いため息のようなものをつき、すぐに姿を消した。
これは自意識過剰かもしれないが、安堵のため息のように感じられた。
「さてと、リンちゃん、拓斗くん、朝ごはんにしましょうか。……って、わたしの家でもないのに言うセリフじゃないわよね」
同じく少しため息交じりにそう言いながら、立ち上がる黒髪の女の人。わざと冗談めかしく言ったよう思えたが、それはきっとリンのためだろう。
「……はい、すぐに作ります! 拓斗くんも昨日の夜何も食べてないからお腹すいてるよね?」
こちらはシャキッと立ち上がると、器械体操の円馬のようなアクロバティックな動きでベッドから飛び降り、キッチンへと走っていった。今日は学校が休みなため、
制服は着ていないが、それでもスカートを
履いていたリン。少しは意識してほしいと言いたかったが、ようやく涙が止まったようなので、それは置いておく。決して、いいもの見れた、なんて思っていないからな。
それはそうと、昨日は浸る余裕がなかったのだが、オレは今日もリンのベッドと思われる布団の上にいた。それを思うと、自分がどんな表情をしていたか分からないが、
まだ同じ部屋にいた黒髪の女の人に笑われてしまった。
それから待つこと数分。少し遅めのブレークファーストが始まった。オレが目を覚ましたのが十一時過ぎだったらしい。ブレークスロウかもしれない。
純和風の朝食をとりながら、二人は昨夜のことを話してくれた。そこにレイさんはおらず、リンと黒髪の女の人が並んで向かいのソファに座り、オレは一人でソファに腰掛ける。
今さらだが、ソファに座りながらのごはんというのはどうなんだろうか。
昨日オレが気絶した直後、線香花火のように呆気なく炎は消え、リンとレイさんは、リンの隣で味噌汁を飲んでいる黒髪の女の人、曇樹ピアさんを呼んだ上で、
オレを風呂場に運んだらしい。そして、シャワーで大量に水をかけた。近所に住んでいるらしいピアさんはすぐに駆けつけ、オレに対して何か処置を
施してくれたとのこと。
あの反響する声の正体は、風呂場内ゆえに起こったものだと気付いたが、一度目を覚ましていたことを言うのは、さきほどのリンの反応を見るとどうにも
気後れがして、知らないということにしておく。そういえばあの硬くて冷たいと感じたのは、風呂場のタイルだったのかもしれない。
ちなみに、起きがけにオレが吹っ飛ばしたのは、ピアさんが頭に乗せてくれていた、氷のうだったらしい。
それと、ピアさんも名前で呼べとのことだった。
「それにしても、ホントに火傷一つなくて、いったい何をしたんですか? ピアさん」
そこが気になるところ。二人の説明では、処置としか言わなかった。
「ああ、ピアさんはね、治療系の魔法使いなんだよ! 魔法使いの中で一人しかいないんだよ〜、すごいよねっ!!」
そうきたか。
「うん、それはそうなんだけど、本当はわたし、何もしていないのよ。少し拓斗くんの体の様子を診ただけ」
否定しないということは、もしかしてこの人も、魔法なんていうものを真剣に語っちゃう会の方であらせられるのか。今考えた会だが。
「え? それってどういう……」
オレの関与しないところで話が進んでいるが、この際無視。もしかしたら、オレもその、魔法を語り合おう会に参加させる気なのだろうか。さっきと
変わったような気がするが、どうでもいい。
「えっとね、拓斗くん、始めから火傷なんてしてなかったのよ」
「え? それってどういう……」
無視すると決めた瞬間なのに、さっきのリンと全く同じように質問をしてしまうオレ。しかし、今ピアさんの言ったことは理解できない。おかしいだろう、
オレは真っ赤な炎に包まれていて、それはもうその通りの熱さに襲われていたのだ。
「正直なところ、わたしにもなんでかは分からないの」
だが、返ってきた返答はないも同然。リンも同じようなことを聞きたかったらしく、明らかに落胆している。勿論、オレも。
「でもね、何だか、拓斗くんに興味が湧いてきちゃった」
そして、なぜだか一人嬉しそうに笑うピアさん。何か子供が賞をとって、それを褒める親のような目をこちらへ向ける。
「ええ?! ダメですよピアさん! 拓斗くんの師匠は、リンがなるんだからぁ!!」
「ええ、分かっているわ。でも、遠くから見守らせてもらうわね。今日行くんでしょう? 魔法稽古をしに」
その子供が、もらった賞品を兄か姉に取り上げられたような慌てぶりで間に入ってくるリン。そして、その行く末を微笑ましく見守る、
やはり親のような目を持って、ピアさんはオレとリンを交互に見た。
「ああ、そうでした! じゃあ行くよ拓斗くん、片付けなんて帰って来てからすればいいからさっ!!」
リンは立ち上がる。気付けば、リンは既に朝ごはんを食べ終えていた。オレはと言えば、味噌汁に箸をつけた程度。あの話の中で、
どうしたらそんなに早食いができたのだろうか。テレビで見る早食いの人たちに言ってやりたい、まだ青いぜと。
「あ」
そんなどうでもいいことを考えていると、またリンに腕をつかまれる。もういい、抵抗はしまい。地球が太陽の周りを回っているように、これは自然の摂理だ。
ただ、これだけは言いたい。
「服を着替えさせてくれ〜〜!」
もっと言うべきことがあるような気もしたが、地球は逆回転できないゆえに。
後ろでは、声をあげてピアさんが笑っていた。