5章 様々な何かが変わり始めた日
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分からないことだらけだ。
朝食中、レイさんに言われたことばを反芻すると、何ともいえない気分になる。十円ガムで当たりが出たが、交換しようかどうか迷っているような感じ。
「今日からこの家に住め」
それが、オレが卵焼きを口にいれようとした瞬間に浴びせられたレイさんのことば。卵焼きをぽとりと落としてしまいそうになったが、そんなベタなことはしない。
「えっ、いいのレイちゃん?! やったぁ、拓斗くんと一緒だぁ!」
隣では、お願いし続けたケータイをようやく買ってもらえた小学生みたいな喜びようのリン。何がそんなに嬉しいんだ、オレなんかと一緒なのが。
だいたい、ここ最近はずっとこの家にいるせいで、オレはすでに居候気分ではある。昨日も、結局泊まってしまった。
ところでそのとき、リンもレイさんも使っていない部屋の
ベッドを借りて寝たのだが、その部屋はやけに綺麗だった。なんで数日前この部屋にオレを運ばなかったのかはこの際無視するとして、使っていないはずの部屋
がなぜこんなに綺麗なのか。しかも、ベッドやテーブルなどの家具も揃えてあり、誰かが生活していてもおかしくないような印象だった。
「じゃあ拓斗くん着替えとかもってこなきゃね〜。そうだレイちゃん、今日学校が終わったら車で迎えにきてよ〜」
「分かった」
もしやまだ見ぬ住人がいるのではないかと考えていると、リンとレイさんは勝手に話を進めている。だが、オレは何も言わなくていいと思う。
だがそう思うと、自分に少し驚きを感じた。レイさんが車を運転できるということに軽い驚きを覚えたが、オレは二人の話を否定する気が全くなかった。何も言えない
のではなく、何も言わない。
オレはどうしてしまったんだろう。
それから、レイさんの時間と場所の指定を聞き、今日は一人で外へ出た。オレの家に制服を取りに行くためだ。ついでに母さんに着替えをまとめてくれるように言っておこう。
「おはよう拓ちゃん。今日は海美リンって子と一緒じゃないんだね」
「おはよ……莉子」
そして、身支度を整え、いざ学校へ行かんと一歩踏み出したとき、あまり逢いたくなかった人が待ち構えていたかのように現れた。というか、玄関を開けたら門の前で
こちらを見ながら立っていたので、本当に待ち構えていたのだろう。オレが帰ってきたのを見ていたのかもしれない。
隠すようなことはなかったはずなのに、魔法のことを話すのは恐らくタブーだろう。オレがそのことを知ったのは、魔法を見てしまったからなのだから、話してしまったら
莉子を巻き込むことになる。それに、それ以外のことで、何か分からないが後ろめたさを感じる。
「一昨日は帰ってたみたいだけど、昨日はまた泊まり? 海南リンって子の家に?」
「えっと、まぁ、そうだけど……リンだけが住んでるんじゃなくて、レイさんっていう女の人もいるんだけどね」
学校へ向かいながら莉子に問い詰められるが、とりあえず二人きりではないことのアピールはしておこう。
「レイさん……? その海南リンって子のお母さん?」
「いや、違うみたいだけど……」
そう聞かれてふと気付く。そういえば、リンとレイさんはなぜ一緒に住んでいるのだろうか。少なくとも姉妹ではないらしい。もっとも、
レイさんは二十歳くらいだと思うから親と一緒じゃなくても不思議ではない。
だが、リンはどうか。リンは中学三年生だと聞いているが、親はいったいどうしたのだろうか。
考え始めると、疑問はまだ出てくる。
あの高そうな家具。レイさんはたまに家にいないときがあったからどこかで仕事をしているのかもしれないが、その年でそんなに稼げるとは思えない。リンは年齢的に働くことも
できないだろう。あのマンションの一室そのものの家賃もそれなりに高そうだ。
「なんで拓ちゃんって海南リンって子と一緒に登校してたの? それに、いつのまに知り合いになってたの?」
しかし、莉子の質問は途絶えない。それも、答えにくい質問になってきた。
莉子がこんなに自分から質問してくるのは珍しい。どちらかといえば、聞かれないと答えないタイプの莉子。こんなによく話す莉子は、今まであっただろうか。
いや、そういえば一度だけあった。四年前、オレが思わず莉子に八つ当たりしてしまったとき、今みたいに莉子から質問攻めにあった記憶がある。あのときは、正直恐かった。
「ねえ、聞いてるの? 拓ちゃん?!」
ドキリとした。あのときも、言われたセリフ。オレは、そのあと逃げたんだった。莉子が恐くて恐くて、思わず質問攻めにあっていた部屋から逃げ出してしまったのだ。
しかし、結局悪いのは八つ当たりをしたオレだと気付き、
しばらくして戻ってきてみると、莉子はその部屋で死んだように倒れていた。そのときの莉子に変化はなかったと思う。だがその部屋は、思わずさっきと同じ部屋なのかと疑いたくなるような
ものへとなっていた。
凍っていた。
部屋一面、氷に覆われていた。飲みかけのジュースから壁紙に至るまで凍てつき、部屋の色を変えていた。
思わず親達を呼びに行こうとしたオレだったが、なぜかそれをしなかった。これもなぜか分からないが、オレが部屋に入って莉子を抱き起こす間には、さきほどの光景が嘘のように
消えてなくなり、部屋は元の色へ戻っていた。それに、オレの中の何かが、他人へ知らせるなと叫んでいたような気がする。
「聞いてるよ。でも、ちょっと落ち着いたほうが良いよ、莉子」
今日は、逃げない。
オレが密かに"裏莉子"と呼んでいる、あの状態には二度としてはいけない。莉子の詰問が裏莉子への入り口ならば、以前しなかったことをすればいい。
「あ……ごめんなさい、拓ちゃん。やっぱり、どこで何してても拓ちゃんの勝手だよね」
莉子は、途端にいつもの莉子に戻り、三日前と同じセリフを口にした。いや、いつもの、というのは違うかもしれない。
「よっ、二人とも」
沈黙したまま二人で歩いていると、背後から聞きなれた、鳥の羽みたいに軽いノリの声。今日は、背中は叩かれなかった。
気付けば、もう校門前。秀也の家は、この学校へ行くにはオレ達とは逆方向から来ることになるので、登校中に秀也と逢うとしたらここくらいだ。
「お……おはよ、秀也っ!」
「あ……おはよう、秀ちゃんっ!」
空元気。
秀也なら、それが分からないはずはない。
「おう! ところでさ、見たか? 昨日のテレビ!」
しかし、秀也はいつもと同じようにバカみたいに笑い、リンゴを丸呑みにできそうなくらい大口をあけて笑う。本当にバカだ、こいつは。
そのあとオレ達は、ホームルームが始まるまで、次の日には忘れてしまうようなとりとめもない話をして、笑いあった。
授業が始まり、静まりかえる教室の中に置かれて、少し頭をひねってみる。
秀也には、聞きたいことがあった。
昨日の集会で壇上に立った、あの天気シュラなる男のこと。
実のところ、もしかしたら秀也なのかもしれないと思っているオレがいるのだが、なんともいえない。ただそれでは、魔法見習いとしての秀也の存在が崩れてしまい、
明らかにおかしい。しかし、一概に否定できないのだ。理由は、よく分からない。
「ん? あぁ、まぁ気にするなっ!」
これが、昼食時に聞いた秀也からの答え。いつものニヤケ顔で適当にそう言うと、弁当をがっつきだした。何かひっかかるものがあるが、
これ以上の詮索はあきらめたほうがよさそうだ。
そして莉子に対しては、気になることがあった。
最近の態度云々は、女心と秋の空と剥いたリンゴの色ということで置いておくとしても、四年前のことを思い出して気がかりなことがある。あの氷付けになった部屋、
あれは魔法だったのではないだろうか。あのころはそんなものの存在など信じていないし、そもそも夢だったのではないかと思ったりもしたが、今ならその選択肢が
増えている。
しかし、そのことは莉子ですら知らないだろうし、今でもオレは他人に話す気にはなれない。
結局のところ、今日の学校は、分からないことだらけで終わってしまった。
いや、それはいつものことか、勉強嫌いだし。